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『新修大阪市史 史料編』第17巻「近代Ⅳ経済2」を刊行...
01/10 16:31
年始のお知らせ
12/04 17:13
大阪市史史料 第88輯『御用録(上)』を刊行しました
10/18 10:05
編纂所だより 第53号をアップしました
09/27 14:02
講演会「大坂町奉行所 与力の仕事」を開催します(10月6日)
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レファレンス協同データベース
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レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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https://crd.ndl.go.jp/
1932年当時、奈良市西御門町にあった大阪毎日新聞奈良支局があった場所について知りたい。できれば地図で表されているとよい。支局があった場所は、西御門町の北側で中筋町との境で、旧宮武正道宅であったとのことである。くわえて宮武家は製墨問屋だったが、当時すでに廃業していたとのこと。(奈良県立図書情報館)
結論から申しますと、当館が所蔵している住宅地図で最も古い、『ゼンリン住宅地図奈良市 ['66]』(1966年出版)p.17の近鉄奈良駅付近にあります毎日新聞奈良支局の位置は、1932年当時の奈良支局と変わらない位置であると考えられます。
『「毎日」の3世紀 : 新聞が見つめた激流130年, 別巻』p.27によりますと、奈良支局は昭和62年に開設60周年を迎え、近鉄奈良駅前にあった旧支局から近鉄新大宮駅前に移動したとのことです。
くわえて、『昭和の奈良大和路 : 入江泰吉の原風景 : 昭和20〜30年代』p.8に掲載されている、昭和33(1958)年の近鉄奈良駅前の写真には毎日新聞奈良支局と思われる建物が写っています。
なお、宮武正道氏については『宮武正道 : 追想』によりますと、製墨業「宮武春松園」の九代目とのことです。
また、「宮武春松園」は奈良市西御門町八番屋敷にあったとのことです。
さらに、『奈良の筆と墨』には大正9(1920)年に「宮武春松園」を含めた複数の製墨家が加わった大日本製墨株式会社が設立され、本社が奈良市西御門町八番屋敷に置かれ2年後に移動したとのことでした。しかし、その後、この場所に毎日新聞奈良支局が置かれたかどうかの記載はありませんでした。
参考資料:奈良市, ['66]. ゼンリン, 1966.2-. (ゼンリン住宅地図 [奈良県]), (当館請求記号 291.65-464-1966, 当館資料番号 151157733)
参考資料:「毎日」の3世紀 : 新聞が見つめた激流130年 別巻. 毎日新聞社, 2002.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003624759-00,
参考資料:入江泰吉写真 ; 入江泰吉記念奈良市写真美術館編 , 入江, 泰吉 , 奈良市写真美術館. 昭和の奈良大和路 : 入江泰吉の原風景 : 昭和20〜30年代. 光村推古書院, 2011.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I003152024-00, 9784838104512
参考資料:安彦勘吾著 , 安彦, 勘吾. 奈良の筆と墨. 奈良市, 1983.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I011174901-00,
参考資料:宮武タツエ編集 , 宮武, タツエ. 宮武正道 : 追想. 宮武タツエ, 1993.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I006667157-00,
(2024/04/11 18:07)
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【石川県出身の銭湯経営者について】 石川県から都会(大阪や東京)に出て銭湯で成功した例を知りたい。(金沢市図書館)
国立国会図書館サーチで検索し、類似のレファレンス事例を見つけた。
「東京の銭湯経営者には富山県出身の人が多いがなぜか」(富山市立図書館)
この中に『銭湯の謎』と『絵でみるニッポンの銭湯文化』が紹介されていた。
『銭湯の謎』(112181064)p.182-183「銭湯と北陸の知られざる関係」に、東京や関西の銭湯に北陸出身者が多い理由が考察されている。
『絵でみるニッポン銭湯文化』(310520085)p.52に「銭湯人のルーツ 加賀・能登」という文章が掲載されている。
インターネット検索で以下の記事が見つかった。
「東京の銭湯経営者に「北陸出身が多い」説は本当か」
【URL】https://urbanlife.tokyo/post/56838/(2023年10月18日最終閲覧)
この中で北國新聞2002年10月8日付記事より、「石川県出身の銭湯経営者は大坂で六割、京都で八割を占め、関東でも新潟に次いで石川や富山、福井の出身者が多い」という一節が紹介されている。
北國新聞 平成14年10月8日 朝刊 35面「「父祖の地」で全国大会」に同文が掲載されている。全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会の理事長の出身地は鹿島町と記載されている。
『人文地理 第50巻4号』 「石川県南加賀地方出身者の業種特化と同郷団体の変容-大阪府の公衆浴場業者を事例として-」 宮崎良美/著 に、『地理 6-1』 「石川県人と大都市の浴場業」 金崎肇/著 の概要が紹介されており、昭和初期以降、七尾市の旧崎山村において、ほぼすべての転出者が東京の浴場業者になったこと、東京都・大阪府・京都府における石川県出身者の浴場の営業地が近接している(連鎖移動している)ことが指摘されている。また、宮崎論稿によると、石川県出身者は東京都で25%を、京都で70%を、大阪で約4割を占めることが指摘されている。
朝日新聞 令和4年9月28日 朝刊 19面(石川全県・1地方)「(北陸リポート)なにわに息づく能登人気質 過酷な仕事励み独立、石川・旧鳥屋町出身者ら/石川県」に、大阪の銭湯経営者で互助会を作った中蔵吉蔵などが紹介されている。
「能登出身の銭湯経営者データベース」に、文献や神社寄進物などから収集した能登出身の銭湯経営者の名前が掲載されている。
【URL】https://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/soshiki/shougaigakushuu/2_1/1/7429.html(2023年10月18日最終閲覧)
『加能地域史 第80号』 「中能登町出身の銭湯経営者について」 道下勝太/著 に、能登部村出身の銭湯経営者及び鳥屋地区出身の銭湯経営者の名前が掲載されている。
『鳥屋町史 現代編』(109067184)p.151-192「表彰」の項に、銭湯経営者として酒道勇太郎、中屋吉郎、角屋増太郎、宿谷太助、髙木長一、山口多作、細川吉郎、細川正二の名前が掲載されている。また、『鳥屋町史』(11903501)p.540に昭和30年の風呂屋、豆腐屋出稼数が部落ごとに掲載されている。
『崎山のれきし』(119586986)p.88「泉米松」(崎山村鵜浦出身、東京の銭湯経営者)
(2024/03/29 00:34)
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【尹奉吉(ユンボンギル)の金沢への連行について】 尹奉吉は大阪から金沢へ連行されて処刑されるまでの間、仕事をしていたか。していたとすればどのような仕事か。 収容されていた場所、処刑された場所も知りたい。(金沢市図書館)
『4月29日(エンペラーズ・バースデー)の尹奉吉』(118420231)p.16~20に大阪から金沢へ連行され、処刑されるまでの様子が記載されているが、金沢には一晩だけ滞在していたことが分かる。そのため、仕事をしていた可能性は低いと考えられる。また、収容されていたのは、金沢衛伊拘禁所の営倉(軍人用の牢獄)、処刑されたのは三小牛山にある金沢陸軍作業場の中の谷間を利用して立てられた刑場と記載あり。
『尹奉吉暗葬の地・金沢から』(111560482)p.143~150に、上海からの日本移送と金沢で処刑されるまでの様子が新聞記事の内容とあわせて記載あり。p.151には資料として「死刑執行始末書」あり。
『評伝尹奉吉』(113044097)p.235~238にも上海から大阪へ護送され、金沢で処刑されるまでの様子の記載あり。
(2024/03/29 00:33)
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【富田主計について】 富田高定の実子である富田主計と、高定の実兄である宗高の実子の千代丸とを入れ替えて、本物の主計は稲葉主計として摂津国の中島藩に入ったという内容が書かれた資料はないか。また、主計町の名前の由来になっている、富田主計重家のエピソードなどが知りたい。(金沢市図書館)
○富田高定について
『戦国人名辞典』(119320713)p.170「富田高定」
『戦国人名事典』(11086165)p.550「富田高定」
上記資料によると、富田高定は豊臣秀次に従った若江七人衆の一人で、のち加賀の前田利長に迎えられたと書かれている。
『越登賀三州志』(119989783)p.234-235「富田蔵人高定」によると、富田高定は富田左近将監の次男で、子がなく、後家へ小給を与えたようだが、『越登賀三州志』を書いた富田景周の祖の富田氏とは別苗であるとする。
富田左近将監(富田一白)については、『戦国人名辞典』(118469920)p.700に、前田家に仕えた富田氏の家系については『石川県史資料 近世篇8 諸士系譜』(109084069)p.145-151に記載がある。
『加能郷土辞彙』(初版)p.634「富田高定」 父の名前は盛高といい、高定の後は子がなく断絶したと書かれている。
○富田重家について
『金沢古蹟志 第11編』巻28 p.11「富田主計重家伝」 名人越後守重政の長男だったが、父に先だって没した。その弟の宗高が主計を称したが、早世して子がなく、断絶したと書かれている。
『北陸の剣豪』(118415518)p.185-186
『加能郷土辞彙』(初版)p.633「富田重家」
<追記>
富田蔵人高定の大聖寺城で死ぬさまを前田家に報告した資料はないか、家臣の息子が報告した内容で、死ぬ前に高定と話した約束が文書に残っているはずと追加の質問があった。以下に慶長5年の大聖寺城での戦における富田高定の記述が載っているものを記す。
・『北陸の剣豪』(118415518)p.206-211「富田蔵人」
・『超訳越登賀三州志』(113244436)p.213-214
・『加賀藩史料 第1編』(11801624)p.761-773「八月三日。前田利長大聖寺城を攻めて之を陥る。城主山口宗永その子修弘之に死す」
・『加賀藩史稿 5』(119544888)「列伝第七 富田高定」
(2024/03/29 00:32)
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【「大坂冬の陣」について】 慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」のうちの、12月4日の「真田丸の戦い」の戦況と推移について知りたい。 「真田丸の戦い」には加賀藩主・前田利常公と藩兵が参加したと聞いたが、利常公と藩兵の行動に関連した図書・論文があったら、タイトル・発行元を教えてもらいたい。(金沢市図書館)
○図書
『石川県史 第2編』(118412712)p.236~268「第7節 大阪両陣」
『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.129~130「大坂冬陣」
『前田利常略伝』(119563794)p.18~26「8、大阪役」
『小松黄門 前田利常公』(11827101)p.33「四日」
○論文
『加能史料研究 第7号』(1995.3)(119497741)「大坂冬陣における家中奉公人と給人夫役」木越隆三/著 p.1~21
『市史かなざわ 第5号』(1999.3)(119640982)「大坂冬陣日記再考」長谷川孝徳/著 p.62~72
『加賀藩研究 第2号』(2012.6)(109161195)「戦場における大名前田家の統制と加賀藩士の自律性―大坂の陣を事例として―」岡嶋大峰/著 p.1~17
○史料集
『前田氏戦記集』(118511917) 「大坂両陣日記」p.129~139、「大坂両度御出馬雑録」p.141~162
『加賀藩史料 第2編』(11801625)p.265~283「大坂冬陣日記」、「三壺聞書」等
『越登賀三州志』(119989783)p.281~283
(2024/03/29 00:31)
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市立中央郷土関連:トップ5
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レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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大阪市城東区今福にある皇大神宮の「こじょろう稲荷」について知りたい。(大阪市立中央図書館)
「こじょろう稲荷」は「小女郎稲荷」と表記されます。
以下の資料に、関連する記述が見つかりました。
(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府全志 巻之3』 井上正雄 著 大阪府全志発行所 大正11 (インターネット公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/965800/1/186 (2024.3.25確認)
「第三篇 国郡市町村志 第一章 摂津国 第二節 東成郡 第二十項 鯰江町 大字今福 皇大神社」p.317(コマ番号186)に「稲荷神社はもと大和川堤の字狐山にありて、俗に小女郎稲荷と呼び、大和郡山の源九郎稲荷・和泉の葛葉稲荷と共に称せられて、其の名声に聞こえれば、一時賽者群集して、地獄橋即ち今の今福警察文暑の前なる極楽橋(墓地の通路に富み故に此の名あり)の附近は、茶店軒を連ねしという。」とあります。
(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府神社史資料』 (大阪府 編 大阪府 昭和8) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263/1/246 (2024.3.25確認)
p.468(コマ番号246)に出典は『大阪府全志』とする「村社皇大神宮(旭区今福町)」の項があり、小女郎稲荷についての記述があります。
(3) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)
「城東区」のp.628「今福村」の項に皇大神宮についての記述があり、「末社稲荷神社はもと新喜多新田にあり、俗に小女郎稲荷とよばれた。」とあります。
(4) 国立国会図書館デジタルコレクション『難波大阪 郷土と史蹟』 (講談社出版研究所 編 講談社 1975) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573482/1/78 (2024.3.25確認)
「城東区」のp.148(コマ番号78)に「皇大神宮」の項に「「末社稲荷神社はもと大和川堤の字狐山にあり、小女郎稲荷とよばれて、大和郡山の源九郎稲荷、泉州信太の葛の葉稲荷とともに知られ、むかしは極楽橋から参道附近には茶店が軒をつらねていたという。」とあります。
(5) 国立国会図書館デジタルコレクション『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成. 其1,2』 船越政一郎 編 浪速叢書刊行会 昭和2 (インターネット公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/1243105/1/133 (2024.3.25確認)
「摂津名所図会大成 巻之三 浪華東部続」のp.61(通しページp.227)(コマ番号133)「小女郎祠」の項に、「志喜多新田ニあり近来霊験あらたなりとて詣人すこぶる多し社壇もつとも端麗に造立ありて美なり」とあります。
(6) 『上方 -郷土研究- 5 自第四十九号(昭和十年一月)至第六十号(昭和十年十二月)』 (上方刊行会/監修 新和出版社 1970)
第55号(昭和10年7号)
p.57-96「大阪神社総覧」のp.90に「村社皇大神宮(大阪市旭区今福町)」の項に「末社に道祖神社稲荷神社あり、稲荷神社はもと大和川堤の狐山にあり、俗に小女郎稲荷と呼び其名声に聞え、一時賽者群集にして附近は茶店軒を連ねたと云ふ」とあります。
(7) 『大阪史蹟辞典』 (三善 貞司/編 清文堂 1986.7)
p.179「皇大神宮」の項に、小女郎稲荷のついての記述があり、「もとは大和川堤の旧字狐山にあった社で、大和郡山の源九郎稲荷、泉州の葛葉稲荷と並ぶ有名な稲荷大明神であった。」とあり、『摂津名所図会大成』の記述が引用されています。
回答プロセス:1.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)、大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html)を、キーワード“小女郎稲荷”で検索するが、有用資料なし。
2.国立国会図書館デジタルコレクションで、キーワード「小女郎稲荷」で検索、資料(1)(2)(4)(6)が見つかる。
3.郷土関係のレファレンス資料を確認、資料(7)が見つかる。
4.商用データベース「JapanKnowledge」にて、キーワード“小女郎稲荷”で検索、資料(3)が見つかる。
5. 当館作成「大阪関係レファレンスチェック表」(外部非公開)を順に調査し、『浪速叢書 第16 索引』(浪速叢書刊行会 1930)を確認。「神社」の「小女郎祠」の項より資料(5)が見つかる。
6.城東区の区史、学校史、東成郡誌などを確認するも有用記述なし。
参考資料:当館書誌ID 大阪府全志 巻之3 井上 正雄/著 清文堂 1985 9784792402723 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪府神社史資料 上巻 大阪府神社庁 1986 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1 平凡社 2001.7 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 難波大阪 郷土と史蹟 牧村 史陽/編 講談社 1975 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 浪速叢書 第7 船越 政一郎/編纂校訂 浪速叢書刊行会 1927 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 上方 -郷土研究- 5 自第四十九号(昭和十年一月)至第六十号(昭和十年十二月) 上方刊行会/監修 新和出版社 1970 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 大阪史蹟辞典 三善 貞司/編 清文堂 1986.7 9784792423414 資料(7),
(2024/03/27 00:30)
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テクノポート大阪構想に代表される1980年代以降の大阪湾の埋め立ての歴史に関する本を探している。(大阪市立中央図書館)
大阪湾岸域のうち、大阪・関西万博の開催地「夢洲」を含む、大阪港の埋立事業並びにテクノポート計画についての資料を主に紹介します。
<大阪湾の埋立の歴史について>
(1) 『大阪港150年史 -物流そして都市の交流拠点-』(大阪港湾局 2021.7)
p.237-556「第2部 平成以降の大阪港発展史」
こちらの資料は、大阪港湾局がデジタルブックとして公開しており、全頁閲覧できます。該当ページは第2分冊に所収されています。
大阪市:「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」(デジタルブック)
https://www.city.osaka.lg.jp/port/page/0000548325.html (2024.3.13確認)
下記資料(2)-(4)は上・中・下巻並びに索引の全4冊からなる『大阪築港100年』の中・下巻・索引です。中巻・下巻に大阪港の埋立に関する記載があります。
(2) 『大阪築港100年 -海からのまちづくり- 中巻』(大阪市港湾局 1999.7)
1980年代以前の埋立てについての記述ですが、参考にご紹介します。
p.178-186「第5章 港湾整備体制と事業の推進 第3節 南港埋立事業の開始」
p.375-397「第7章 港湾施設の近代化と主要工事の概要 第5節 南港埋立工事」
(3) 『大阪築港100年 -海からのまちづくり- 下巻』(大阪市港湾局 1999.12)
1980年代以前の埋立てについての記述も含みます。
p.377-396「第8章 主要港湾工事の実施概要 第2節 南港1~3区の土地造成と南港内港の建設」
p.397-420「同章 第3節 南港外港の建設」
p.441-479「第9章 大阪港の最近の10年」
(4) 『大阪築港100年 -海からのまちづくり- 索引』(大阪市港湾局 1999)
(5) 『大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第61号 特集 大阪港大阪湾』(大阪春秋社 1990)
p.60-71 橋本静二「大阪港はオシャレに変身中」
p.72-77 青木茂夫「南港開発略史」
p.78-83 「大阪港史 昭和期を中心とした主な出来事」
(6) 『大阪港港湾計画資料 :改訂 その1』(大阪市 2019.3)
p.132-149「7 過去の港湾計画一覧」に昭和22年から平成29年までの港湾計画の経緯が時系列で記載されています。
<大阪南港・テクノポート計画について>
・図書
(7) 『「テクノポート大阪」計画の基本構想』 「テクノポート大阪」懇話会/[編](「テクノポート大阪」懇話会 1985)
p.31-38「4.南港・北港地区の整備方向」
(8) 『大阪湾のウォーターフロント』(南海道総合研究所/[編] 南海道総合研究所 1989.4)
p.50-53「テクノポート大阪」の項があり、整備計画の概要について記述があります。
(9) 『再開発大阪ベイ・ネットワーク-大阪神戸-』(筒井 光昭/編著 住宅新報社 1991.4)
p.94-119「SCENE-4 テクノポート大阪エリア」の項があり、開発経過等について記述があります。
(10) 『大阪港咲洲トンネル開通 -咲洲に新しい交通アクセス-』(運輸省第三港湾建設局大阪港湾空港工事事務所 1997.10)
大阪港咲洲トンネル工事の記録です。
p.46-47に「大阪の明日を拓く「テクノポート大阪」計画」の項があり、着工後の現状について記述があります。
・雑誌
(11) 『大阪港 35巻1号〜36巻4号』 (大阪港振興協会 1984.2-1985.10)
36巻1号p.6-9 小林幸蔵「「テクノポート大阪」計画について」
36巻2号p.6-10 飯田一根「「テクノポート大阪」計画について(2)」
36巻3号p.8-13 飯田一根「「テクノポート大阪」計画について(3)」
36巻4号p.6-11 飯田一根「「テクノポート大阪」計画について(4)」
(12) 『大阪港 37巻1号〜38巻4号』(大阪港振興協会 1986.1-1987.10)
37巻1号p.14-20 飯田一根「「テクノポート大阪」計画最近の状況」
37巻1号p.46-50 木山正明「南港土地造成事業の変遷(1)」
37巻2号p.26-30 木山正明「南港土地造成事業の変遷(2)」
37巻3号p.24-28 木山正明「南港土地造成事業の変遷(3)」
37巻4号p.22-25 木山正明「南港土地造成事業の変遷(4)」
38巻1号p.40-43 木山正明「南港土地造成事業の変遷(5)」
38巻2号p.24-28 木山正明「南港土地造成事業の変遷(6)」
38巻3号p.34-38 木山正明「南港土地造成事業の変遷(7)」
38巻4号p.46-49 木山正明「南港土地造成事業の変遷(8)」
(13) 『大阪港 1988-89年』(大阪港振興協会/[編] 大阪港振興協会 1988-1989)
39巻1号p.52-56 木山正明「南港土地造成事業の変遷(9)」
39巻2号p.40-43 木山正明「南港土地造成事業の変遷(10)」
39巻3号p.11-15 仙波惇「南港地区-コスモスクエア-の愛称募集と開発の現況について」
39巻4号p.6-9 作花隆夫「21世紀のまちづくり「テクノポート大阪」」
39巻4号p.13-15 木山正明「南港土地造成事業の変遷(11)」
40巻1号p.14-17 木山正明「南港土地造成事業の変遷(12)」
40巻2号p.40-41 木山正明「南港土地造成事業の変遷(13)」最終回
(14) 国立国会図書館デジタルコレクション『月刊建設. 29(5)』(全日本建設技術協会 1985-05)(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3240512/1/19 (2024.2.27確認)
p.34-37(コマ番号19-20)「特集:独創的な地域・まちづくり 大阪21世紀計画―テクノポートを中心として―」
(15) 『オール関西 復刊6巻7〜12号』(オール関西 1989.10-1990.3)
6巻12号p.26-41「特集 テクノポート大阪」
(16) 国立国会図書館デジタルコレクション『Chamber (431)』(大阪商工会議所 1990-06)(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2251063/1/6 (2024.3.13確認)
p.8-11(コマ番号6-7) 渡辺 悟「ベイエリア開発の中核プロジェクト・テクノポート大阪」
(17) 『まちなみ 1992年』(大阪建築士事務所協会/[編] 大阪建築士事務所協会 1992)
1992年7月16巻7号p.29-57「特集 21世紀の臨海新都心 テクノポート大阪」
(18) 『BARD(バード) -世界都市“関西"形成に向けて- 1992-99年 / 1-28号』(大阪湾ベイエリア開発推進機構大阪湾ベイエリア開発推進協議会/[編] 大阪湾ベイエリア開発推進協議会 1992-1999)
第13号(1995 夏)p.19-22「整備計画 大阪市大阪湾臨海地域整備計画の概要」
以下はテクノポートに関する資料ではありませんが、当該地域に関する資料として参考にご紹介します。
(19) 『大阪港港湾計画書 [2019]改訂』(大阪市 2019.3)
現在の大阪港港湾計画の資料です。付録に「大阪港港湾計画図」があり、将来構想なども記載されています。
回答プロセス:1.当館の過去の類似レファレンス事例で回答した資料から、(1)および(6)-(9)、(11)-(13)、(15)-(19)が見つかる。
2.質問者の事前調査資料『大阪 : 大都市は国家を超えるか』(砂原庸介 中央公論新社2012.11)と参考文献を確認、質問に関する事項なし。
3.レファレンス協同データベースにて、キーワード“大阪港”ד埋立”を検索。質問と合致する事項なし。
4.当館蔵書検索システムにて、タイトル“咲洲”+“夢洲”で検索。ヒットした資料を確認。資料(10)が見つかる。
5.当館蔵書検索システムにて、タイトル“北港”で検索。新たな有用資料見つからず。
6.大阪市ホームページ「大阪市都市工学情報2次情報」( https://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000199551.html )のジャンル一覧より「港湾事業 埋立事業」のリストを確認、資料(2)-(4)が見つかる。
7.「大阪春秋総目次・索引集」( http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/index-top-shunjyu.htm )で「大阪港」の項を確認、資料(5)が見つかる。
8.国立国会図書館デジタルコレクションでキーワード“テクノポート大阪計画”を検索。資料(14)が見つかる。
事前調査事項:砂原庸介『大阪』
参考資料:当館書誌ID 大阪港150年史 -物流そして都市の交流拠点- 大阪港湾局 2021.7 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪築港100年 -海からのまちづくり- 中巻 大阪市港湾局 1999.7 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大阪築港100年 -海からのまちづくり- 下巻 大阪市港湾局 1999.12 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪築港100年 -海からのまちづくり- 索引 大阪市港湾局 [1999] 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第61号 特集 大阪港大阪湾 大阪春秋社 1990 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大阪港港湾計画資料 :改訂 その1 大阪市 2019.3 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 「テクノポート大阪」計画の基本構想 「テクノポート大阪」懇話会/[編] 「テクノポート大阪」懇話会 [1985] 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大阪湾のウォーターフロント 南海道総合研究所/[編] 南海道総合研究所 1989.4 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 再開発大阪ベイ・ネットワーク -大阪神戸- 筒井 光昭/編著 住宅新報社 1991.4 9784789213561 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 大阪港咲洲トンネル開通 -咲洲に新しい交通アクセス- 運輸省第三港湾建設局大阪港湾空港工事事務所 1997.10 資料(10),
参考資料:当館書誌ID 大阪港 35巻1号〜36巻4号 大阪港振興協会 1984.2-1985.10 資料(11),
参考資料:当館書誌ID 大阪港 37巻1号〜38巻4号 大阪港振興協会 1986.1-1987.10 資料(12),
参考資料:当館書誌ID [雑誌製本] 大阪港 1988-89年 大阪港振興協会/[編] 大阪港振興協会 1988.00-1989.00 資料(13),
参考資料:当館書誌ID オール関西 復刊6巻7〜12号 オール関西 1989.10-1990.3 資料(15),
参考資料:当館書誌ID [雑誌製本] Chamber -会議所月報- 1990年 / 427-436号 大阪商工会議所/[編] 大阪商工会議所 1990 資料(16),
参考資料:当館書誌ID [雑誌製本] まちなみ 1992年 大阪建築士事務所協会/[編] 大阪建築士事務所協会 1992 資料(17),
参考資料:当館書誌ID [雑誌製本] BARD ( バード ) -世界都市“関西"形成に向けて- 1992-99年 / 1-28号 大阪湾ベイエリア開発推進機構大阪湾ベイエリア開発推進協議会/[編] 大阪湾ベイエリア開発推進協議会 1992.00-1999.00 資料(18),
参考資料:当館書誌ID 大阪港港湾計画書 [2019]改訂 大阪市 2019.3 資料(19),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『月刊建設. 29(5)』(全日本建設技術協会 1985-05) (国立国会図書館/図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3240512 (204.3.13確認) 資料(14),
(2024/03/25 00:30)
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大阪市港区天保山地区の盛土の歴史が分かる資料を探している。また、『港区たんけん手帳』の28、29、31頁に、盛土に対して反対意見があったが、「ジェーン台風で盛土工事が済んでいたところは被害がなかったことから反対意見がなくなった」とある。反対意見の内容がわかる資料や、ジェーン台風による被災地(被災しなかった土地)の地図はないか。(大阪市立中央図書館)
関連する記述のある資料を以下にご紹介します。
(1)-(3)は大阪港を知るにあたり基礎的な資料で、盛土工事およびジェーン台風による被災についても詳細な記述があります。
(1) 『大阪港工事誌』 (大阪市港湾局 1971)
大阪港の工事の歴史についてまとまった記述がある資料です。以下のページほか、
盛土工事については、p.467-481「第3編 事業実施 第3章 高潮対策事業 第2節 防災事業地盤嵩上」、p.581-584「同編 第4章 港湾地帯区画整理事業 第2節 実施状況」などに、ジェーン台風の災害状況については、p.592-618「同編 第5章 災害復旧 第3節 ジェーン台風災害復旧工事(昭和25年9月3日)」などに記述があります。
(2) 『大阪港史 第1巻』 (大阪市港湾局 1959)
「第四編 戦後期(復興・伸長期) 第二章 修築一〇ヵ年計画事業 第二節 事業の経過」のうち、p.590-592に「一、浚渫および盛土工事」の項があります。
「第四編 戦後期(復興・伸長期) 第三章 ジェーン台風災害」のうち、p.637-650「第一節 風水害概況」中の「ジェーン台風による大阪市内浸水区域図」があります。
(3) 『港区誌』 (大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956)
p.148-159「第三章 防潮事業」に、昭和22年度開始の盛土に関する経緯、工事内容等の記述があります。
p.152に、「ジェーン台風来襲と高潮対策」の項があり、ジェーン台風の際に「盛土の防災的価値が認められ、それまで修築事業としていた盛土工事を防災事業として急速に進めるともに」等の記述がありますが、反対意見の内容についての記述はありません。
以下(4)(5)に収載の地図には、ジェーン台風の浸水区域と盛土工事がなされた地区が記されています。
(4) 『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1
996)
付録の歴史地図「図9 戦災復興期の大阪」に「②ジェーン台風の被害と高潮対策」があり、大阪市内の浸水区域と盛土を含む高潮対策および地盤沈下量が示されています。
(5) 『ジェーン台風 -被害と救援-』(大阪市/[編] 大阪市役所 1950.11)
[p.6]「昭和25・9・3ジェーン台風による大阪市(床上)浸水地域」が掲載され、「六日正午現在」として、「床上浸水排水完了地区」「床上浸水地区」「盛土工事による非浸水地区」が記されています。ただし、掲載は白黒の図であるため、各地区が不明瞭です。
以下(6)に盛土に対する反対意見があった旨の記述が見つかりました。
(6) 『広報みなと 2007年1月-2012年12月 / 127-199号』(大阪市港区役所総務課(総合企画)/編集 大阪市港区役所総務課(総合企画) 2007.01-2012.12)
2010年11月号(173号) p.4「みなと物語 港区を2メートル持ち上げる!~世紀の盛土工事~」に、ジェーン台風襲来の際に「盛土が完了していた知己は高潮被害を免れ、全面盛土効果が実証される形となりました。それまでは、住民からは盛土工事に反対する声が強かったのが、これを機に工事促進を切望する声が高まり、順調に工事が進むようになりました」とありますが、反対意見の具体的な内容についての記述はありません。
ジェーン台風関連の主な資料のうち、以下(7)-(10)に大阪市内の浸水区域が記載された簡易な地図が掲載されていました。
(7) 『風水害概況 -ジェーン台風-』(大阪市行政局/[編] 大阪市行政局 1950)
冒頭地図「大阪市風水害(昭和25年9月3日)浸水被害図」
(8) 『ジェーン台風風水害概況』(大阪市 1950はしがき))
p.13-14「大阪市風水害(昭和25年9月3日)浸水被害図(床上浸水)」
(9) 『ジェーン台風誌要』(大阪府/編 大阪府 1951.3)
p.9「ジェーン台風による大阪市内浸水区域図」
p.10「ジェーン台風被害状況図」
(10) 『ジェーン台風大阪市風水害概況』(大阪市行政局行政調査課 1950)
冒頭口絵「ジェーン台風による大阪市浸水地域図」(昭和25年9月3日)
p.31「浸水地域の減水状況図」
回答プロセス:1.当館の過去のレファレンス事例をキーワード“天保山”ד盛土”で検索。過去類似事例の参考文献より、資料(1)(2)が見つかる
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にてキーワード“盛土”で検索。資料(3)が見つかる。
3大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )にてキーワード“盛土”で検索。資料(6)が見つかる。
4「.国立国会図書館サーチ」にてキーワード“盛土”ד港区”、“盛土”ד天保山”で検索するが、有用情報見つからず。
5.質問者事前確認資料『港区たんけん手帳』の参考文献を確認するが、有用情報なし。
6.当館蔵書検索システムにて、フリーワード“ジェーン台風”で検索。資料(4)(5)(7)(8)(9)(10)が見つかる。
事前調査事項:『港区たんけん手帳 : うちのまち、再発見!』 (大阪市港区役所/編集 大阪市港区役所 2014.3)
p.28-29「本当に?港区を2m持ち上げる!」の項に以下の記述を確認しました。
p.28「大阪港の修築工事で出る土砂を使って、港区の土地に高さ2mも土を盛る区画整理事業がおこなわれました。世界でもめずらしい大規模なこの事業のために、港区の人たちは自分の土地を約4割も提供しました。」
p.29「調べてみよう!②盛土工事の反対運動をしていた人たちの意見を、賛成へと変えたあるできごととは? ★1950(昭和25)年にあったことだよ。」
参考資料:当館書誌ID 大阪港工事誌 大阪市港湾局 1971 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪港史 第1巻 大阪市港湾局 1959 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 港区誌 大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第10巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 資料(4),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風 -被害と救援- 大阪市/[編] 大阪市役所 1950.11 資料(5),
参考資料:当館書誌ID [製本] 広報みなと 2007年1月-2012年12月 / 127-199号 大阪市港区役所総務課(総合企画)/編集 大阪市港区役所総務課(総合企画) 2007.01-2012.12 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 風水害概況 -ジェーン台風- 大阪市行政局/[編] 大阪市行政局 1950 資料(7),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風風水害概況 大阪市 1950はしがき 資料(8),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風誌要 大阪府/編 大阪府 1951.3 資料(9),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風大阪市風水害概況 大阪市行政局行政調査課 1950 資料(10),
(2024/03/23 11:11)
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明治時代にあったという「中之島監獄」について、所在地、規模、収容状況、その他(堀川への移転理由、移転後の跡地活用など)を知りたい。(大阪市立中央図書館)
明治6年4月に大阪裁判所構内(大阪市北区中之島1丁目)に監倉が新設されます。明治13年に監倉は「未決監獄分署」に改称となり、その後、「中之島監獄分署」、「大阪府監獄中之島分署」、「中之島監獄」と改称された後、明治20年7月に堀川監獄に移転合併されました。
以下の資料に関連記述が見つかりました。
1.「中之島監獄」の所在地、規模、収容状況等について
明治14年から19年の『大阪府統計書』に中之島監獄(未決監獄・中之島分署)の記載があります。なお、それ以前の『大阪府統計書』は、当館、大阪府立図書館、国立国会図書館とも所蔵がありませんでした。
(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治14年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/807135/1/36 (2024.2.23確認)
p.58-61(コマ番号35-36)「庁舎」のうちp.60(コマ番号36)に「中之島分署」があり、地名が「中之島一丁目十一番地」、地坪が「八〇八、四五■」、建坪が「一九一、四六四」とあります。
※■は判読不能。
p.248(コマ番号130)「未決監」の項に収容状況の統計が掲載されていますが、廨舎ごとの値はありません。
明治15年から19年の統計には「監獄」の章に敷地面積、出入人員、在監人延人員などの数が記載されています。
(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治15年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/807136/1/296 (2024.2.23確認)
p.570-579(コマ番号296-301)「監獄」
(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治16年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/807137/1/363 (2024.2.23確認)
p.692-703(コマ番号363-369)「監獄」
(4) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府統計書 明治17年』 (大阪府 明15-44) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/807138/1/306 (2024.2.23確認)
p.577-589 (コマ番号306-312)「監獄」
(5) 『大阪府統計書 明治18年』 (大阪府/[編] 大阪府 1887)
p.655-666「監獄」
(6) 『大阪府統計書 明治19年』 (大阪府/[編] 大阪府 1888)
p.694-705「監獄」
(7) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府警察史 第1巻』 (大阪府警察史編集委員会 編 大阪府警察本部 1970) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9768827/1/346 (2024.3.19確認)
「第二編 第三章 消防・監獄 第二節 監獄 一 明治初年の大阪の監獄」のp.666(コマ番号346)「監倉の設置」の項に「大阪裁判所が中之島に設けられたのは(中略)六年一月であったが、その四月に裁判所内に監倉が設けられた。(中略)監倉は未決囚あるいは微罪者を収容するものであった。」とあります。
「同編 同章 同節 二 刑法・治罪法の施行と監獄則改正」のp.674-675(コマ番号350)「堀川監獄の設置」の項、p.675-678(コマ番号350-352)「第二部監獄本署」の項に関連記述があります。
(8) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府全志 巻之5』 (井上正雄 著 大阪府全志発行所 大正11) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/965802/1/170 (2024.3.19確認)
「第三編 国郡市町村志 第三章 和泉国 第二節 泉北郡 第三項 向井町」のp.292-295(コマ番号170-171)「大阪監獄」の項に、中之島一丁目に明治6年に懲役場が新設されたこと、明治13年に中之島の懲役場は未決監獄分署と改称したこと、明治20年に堀川監獄に移転合併した旨の記述があります。
(9) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府誌 第4編』 (思文閣 1970) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572541/1/522 (2024.3.19確認)
「警察史 第二章 維新後 第二節 警察署附監獄署幷に裁判所」のp.1011-1013(コマ番号522-523)の「監獄署」の項に、明治7年に本署を中之島分署に移転したこと、明治13年に警察課中の囚獄掛を未決監獄署と改称したこと、明治19年に中之島の監獄を廃止した旨の記述があります。
(10) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪の行政 (毎日放送文化双書 ; 2)』 (川端直正 著 毎日放送 1973) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9634457/1/37 (2024.3.19確認)
「第一章 明治時代 五、警察・軍隊・裁判所等諸官衙の沿革」のp.58-59(コマ番号37)「監獄」の項に明治6年に中之島分署が大阪裁判所設置の際に設けられたこと、明治13年に未決監獄分署になり、明治18年12月に堀川監獄に合併した旨の記述があります。
(11) 『大阪刑務所創立100周年記念史誌』 (大阪刑務所/[編] 大阪刑務所 1983)
p.5-43「回顧編」の各項に以下の記述があります。
p.6「明治6年(1873)」に「4月 大阪裁判所構内(大阪市北区中之島1丁目)に監倉を新設。」
p.8「明治13年(1880)」に「同月[4月] 監倉を未決監獄分署と改称。」
「明治14年(1881)」に「同月[2月] 未決監獄署を松屋町監獄分署、未決監獄分署を中之島監獄分署と、それぞれ改称。」
p.10「明治18年(1885)」に「8月 堀川監獄分署を大阪府監獄堀川分署、中之島監獄分署を大阪府監獄中之島分署、堺監獄分署を大阪府監獄堺分署と、それぞれ改称。」
「明治19年(1886)」に「8月 府県監獄中、本分署の名称を廃し、単に某地監獄と称することとなり(中略)大阪府監獄中之島分署を中之島監獄と、それぞれ改称。」
「明治20年(1887)」に「7月 中之島監獄を堀川監獄に移転合併。」
(12) 『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996)
附録「歴史地図」の「図6 明治前期の大阪 -市制施行前-」の中之島一丁目付近に「中之島監獄分署」と記載があります。
2.「堀川監獄」への移転の理由について
(13) 『新修大阪市史 第5巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1991)
「第四章 社会問題と社会運動 第一節 環境の近代化と下層社会」のp.542-546「「貧民窟」移転問題」のp.545に中之島・若松両監獄の堀川監獄への統合移転について触れられており、「大阪府はこの年、貧民窟移転計画提案(中略)のほか、長屋建築規則(中略)、中之島・若松両監獄の堀川監獄への統合移転計画案(九月十四-二十日臨時大阪府会)、街路取締規則(中略)、宿屋取締規則(中略)と、三つの規則と二つの計画を準備し、進めていた。これらを総合すると、この計画は大阪最初の「市区改正」つまり現在でいう都市計画であったといえよう。これを導入したのは、おそらくイギリス留学の経験を持つ建野知事であったと思われる。」とあります。
上記(13)に記述のある明治19年9月14日臨時大阪府会議については以下の資料に掲載されています。
(14) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府会史 [第1編]』 (大阪府内務部 明33-43) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/784892/1/86 (2024.2.23確認)
「第四章 各種事業ノ功程」のp.160-164(コマ番号86-88)「監獄署主管ノ分」のp.160-161(コマ番号86)「一 大阪府監獄署ノ新築」の項があり、関連する記述があります。
「第六章 議会ノ経過 第一款 議事ノ梗概」のp.509-511(コマ番号261-262)「明治十九年自九月十四日至同月二十日大阪府臨時府会議事摘要 九月十四日開会」に中之島監獄の移転改築にかかる記録があります。
(15) 橋爪紳也「明治20年大阪における市区改正構想について 建野郷三による都市施設移転計画」 『都市計画論文集』22巻 1987 p.103-108
https://doi.org/10.11361/journalcpij.22.103 (2024.3.19確認)
p.104「2. 明治19年の市街地改良計画」の項に、「明治19(1886)年、大阪府が計画した主な計画と、それに関連する取締規則は下記のとおりである。」として、中之島監獄への統合移転について触れられています。「いづれも治安と衛生の維持という立場から、建野郷三と大浦兼武が立案し主導したものである。市中の秩序を守るためには、木賃宿や「不潔家屋」、監獄といったものを追放し、市街の一定の場所にそれぞれを整理・集約すること、それが為政者の方針であったわけだ。」とあります。
3.「堀川監獄」への移転合併後の跡地活用について
(16) 大阪市立図書館デジタルアーカイブ「實測大阪地図 分図 3-3-甲」 (昇竜堂 1912)
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=map&pkey=s0004033 (2024.3.19確認)
資料(12)の地図にて「中之島監獄分署」と記載があった場所には「公園地」「図書館」と書かれています。
(17) 『中ノ島公園の歴史的考察 その1』 (高橋 理喜男/著 [日本造園学会] 1961)
始審裁判所や監獄分署があったあたりの旧公園地の経過について記載があります。
回答プロセス:1. 当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にて、キーワード“中之島監獄”で検索、資料(13)が見つかる。
2.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )にて、キーワード“中之島監獄”、“中之島”ד監獄”で検索するが、ヒットなし。キーワード“監獄”で検索し、資料(11)が見つかる。
3.当館蔵書検索システムにて、フリーワード“中之島監獄” “中之島”ד監獄”で検索するが、ヒットなし。
4.レファ管を”中之島監獄”で検索するが、有用情報見つからず。
5.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード“中之島監獄”で検索、資料(7)が見つかる。
6.上述「大阪関係資料目次検索」にて、キーワード“監獄”で検索、資料(8)が見つかる。
7.上述「おおさかポータル」にて、キーワード“監獄”で検索し、資料(11)が見つかる。
8.『大阪府誌』の目次より、警察関連の記述のある巻を確認、資料(9)が見つかる。
9.当館が所蔵する明治期の大阪府の統計資料を確認、資料(1)-(6)が見つかる。
10.『新修大阪市史』10巻附録の「歴史地図」のうち、明治期の地図を確認(資料(12))。
11.中之島にあった監獄は「未決監獄」だったので、「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード“未決監獄”で検索するが、有用資料みつからず。
12.「レファレンス協同データベース」にて、キーワード“中之島”ד監獄”、“中之島”ד拘置所”で検索。いくつか事例がヒットするが、新たな有用資料は見つからず。
13.「Googleブックス」にて、キーワード“中之島”ד監獄”で検索、資料(10)が見つかる。
14.資料(13)の引用資料を「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索、資料(14)が見つかる。
15.「CiNii Research」にて、キーワード“中之島”ד監獄”、“中之島”ד拘置所”で検索するが、ヒットなし。
16.「Google Scholar」にて、キーワード“中之島”ד監獄”で検索、資料(15)が見つかる。
17.資料(12)に記載されている中之島監獄分署の位置を明治45年発行の昇竜堂の地図で確認(資料(16))。
18.当館蔵書検索システムにて、タイトル“中之島公園”、“ナカノシマコウエン”で検索、資料(17)が見つかる。
19. 上述「大阪関係資料目次検索」にて、キーワード“中之島公園”で検索、多数ヒットするが、資料(19)より詳細な記述は見つからず。
事前調査事項:「刑務所拘置所変遷図大阪府内編」によれば、中之島監獄は明治6年に監倉が設置されて以降、明治14年に中之島監獄分署に改称されるなど、しばしば改称されており、明治20年になって堀川監獄のほうに移転合併されているようです。
質問者事前確認サイト
公益財団法人矯正協会 矯正図書館:情報資源
https://www.jca-library.jp/resources.html#ref
「刑務所等変遷図」に掲載のPDFファイル「大阪府内変遷図 (PDF)」
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計表 明治14年 大阪府/[編] 大阪府 [1882序] 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計書 明治15年 大阪府/[編] 大阪府 1886 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計書 明治16年 大阪府/[編] 大阪府 1887 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計書 明治17年 大阪府/[編] 大阪府 1887 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計書 明治18年 大阪府/[編] 大阪府 1887 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大阪府統計書 明治19年 大阪府/[編] 大阪府 1888 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 大阪府警察史 第1巻 大阪府警察史編集委員会/編集 大阪府警察本部 1970 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大阪府全志 巻之5 井上 正雄/著 清文堂 1985 9784792402747 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 大阪府誌 第4編 財政.教育.衛生.慈善事業.警察.土木,交通機関并土地水面 大阪府/編纂 思文閣 1970 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 大阪の行政(毎日放送文化双書 2) 川端 直正/著 毎日放送 1973 資料(10),
参考資料:当館書誌ID 大阪刑務所創立100周年記念史誌 大阪刑務所/[編] 大阪刑務所 1983 資料(11),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第10巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 資料(12),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第5巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1991 資料(13),
参考資料:当館書誌ID 大阪府会史 第1編 大阪府内務部/編 大阪府内務部 1900.7 資料(14),
参考資料:当館書誌ID 中ノ島公園の歴史的考察 その1 高橋 理喜男/著 [日本造園学会] 1961 資料(17),
参考資料:橋爪紳也「明治20年大阪における市区改正構想について 建野郷三による都市施設移転計画」 『都市計画論文集』22巻 1987 p.103-108 https://doi.org/10.11361/journalcpij.22.103 (2024.3.19確認) 資料(15),
参考資料:大阪市立図書館デジタルアーカイブ「實測大阪地図 分図 3-3-甲」 昇竜堂 1912 http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=map&pkey=s0004033 資料(16),
(2024/03/22 00:30)
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「住吉高燈籠」について知りたい(大阪市立中央図書館)
「住吉高燈籠」とは、わが国初の灯台とされる史跡です。鎌倉時代末期に住吉の浜に建てられ、明治41年に改築されるも昭和25年のジェーン台風で倒壊しました。その後、昭和49年に現在地に移築復元されました。
下記資料に住吉高燈籠についての記載があります。
(1)『住吉区史』(大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985)
p.142に「鎌倉時代末期に住吉浦の漁民らが、住吉大社への献灯と航海安全を祈って立てたといわれる高燈籠は、高さが石垣積みを含めて十六メートルもあり、わが国初の灯台であった。(中略)上部の木造灯室は明治四十一年に改築されたが、これも昭和二十五年のジェーン台風で壊れ、(中略)四十九年十月、住吉名勝保存会が訳二百メートル東の国道二十六号線西側の住吉公園に石垣積みを移して復元した。」とあります。
(2)国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府全志 巻之三』(井上正雄/著 大阪府全志発行所 1922) (インターネット公開(保護期間満了))〈清文堂復刻版 当館書誌ID:0000172308〉 https://dl.ndl.go.jp/pid/965800/1/54 (2024.2.22確認)
p.52(コマ番号54)に「字神前崎に墨塗の燈籠あり、是れなん有名なる住吉の高燈籠にして、反橋と共に住吉の絵画に物せられ、殆ど住吉の代表的となれるものなり。」とあります。
(3)国立国会図書館デジタルコレクション『住吉村誌』(住吉村常磐会/編 住吉村常磐会 1927) (インターネット公開(保護期間満了)) 〈復刻版 当館書誌ID:0070035196〉
https://dl.ndl.go.jp/pid/1189974/1/251 (2024.2.22確認)
p.436(コマ番号251)「燈明臺」の項に、『大阪府全志』とほぼ同内容の記述に加え、「其の高さ五丈三尺余にして」「燈籠に登れば天空開濶にして東は遠く金峰、葛城の峰を望み、南は大仙陵を目前に控え紀州の山々はその背に、西は満々たる大阪湾の水瑠璃の如く、北は大阪の大工場地の黒雲棚びけるを望み得らる」と、その高さや燈籠上からの見晴らしについても記載されています。
(4)『大阪春秋: 大阪の歴史と文化と産業と』 第9号 (大阪春秋社 1976)
p.93-94「住吉高灯篭再建」の記事があり、再建された高燈籠の紹介と元の燈籠の歴史について記載されています。
(5)『大阪春秋 : 大阪の歴史と文化と産業と』 第19号(大阪春秋社 1979)
p.56「十三間川の開削から埋立まで」の記事中の「長峡浦と高灯籠」の項にも高燈籠の歴史について記載があります。
また、下記資料には住吉高燈籠の写真もあります。
(6)『移りゆく住よし』(石田稔/共著 石田稔)
p.88-89に高燈籠の紹介文があり、p.92-94に江戸時代(寛政頃)、昭和初期、現代(再建後)の高燈籠の図版や写真が掲載されています。
(7)『住吉公園と住吉さん 住吉大社から生まれて150年』(水内俊雄/編著 東方出版 2023)
p.80-82「四 住吉の高燈籠」の項に高燈籠の歴史について記述があります。
p.83-86「五 上田貞治郎写真コレクション所収の住吉高燈籠写真より」の項に、明治期から昭和にかけての高燈籠の様々な写真や図版が掲載されています。
「大阪市立図書館デジタルアーカイブ」の簡易検索画面で「高燈籠」で検索すると、23件の「住吉高燈籠」の写真が閲覧できます。
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/ (2023.2.27確認)
「住吉の高燈籠」『住吉公園歴史探訪 第11号』(都市公園住吉公園指定管理共同体 2021.6)
https://www.toshi-kouen.jp/article.php/sumiyoshi_news20210611 (2024.3.14確認)
では、住吉の高燈籠について詳しく紹介されています。
回答プロセス:1.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)で、「高燈篭」検索。ヒットした資料を確認、資料(2)が見つかる。
2.「大阪春秋総目次・索引集」( http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/index-top-shunjyu.htm )を「高灯籠」で検索。資料(4)(5)がみつかる。
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )で、「高燈篭」検索。追加情報なし。
4.当館書架をブラウジング。資料(1)(3)(6)が見つかる。
5.インターネットで「住吉高灯籠」検索。保存会のHPなど確認。
6.「国立国会図書館サーチ」で「住吉高灯籠」検索。ヒットしたうち、未見の資料を確認。資料(7)がみつかる。資料(2)(3)の旧版が国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できることを確認。こちらを紹介することとする。
参考資料:当館書誌ID 住之江区史 大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 移りゆく住よし 石田 稔/共著 [石田稔] 1988 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 住吉公園と住吉さん -住吉大社から生まれて150年- 水内 俊雄/編著 東方出版 2023.9 978-4-86249-445-0 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 9 特集:大阪昭和五十年史 大阪春秋社/[編] 大阪春秋社 1976 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第19号 特集おおさかの橋と川 大阪春秋社 1979 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 住吉村誌 住吉村常盤会/編 住吉村常盤会 1927.6 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪府全志 巻之3 井上 正雄/著 大阪府全志発行所 1922 資料(2),
参考資料:「住吉公園歴史探訪」第11号 https://www.toshi-kouen.jp/article.php/sumiyoshi_news20210611,
(2024/03/22 00:30)
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編纂所が調査に関わったもの
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪市浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい。(大阪市立中央図書館)
安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。
その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。
そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
・小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号(p.91~95)
碑文の原文全文が掲載されています。
ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
・『大正大阪風土記』訂正(大阪教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1927)
「津波の碑」の項(p.327~328)にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。
また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
・浪速区役所ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認)
「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています。
そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。
2011年8月、大阪市史編纂所より、碑文に関する参考資料として以下のものが最適という情報をいただきました。
・『水都大坂を襲った津波 : 石碑は次の南海地震津波を警告している。』( 長尾 武/著・発行 改訂版 2007)
p.14~16に碑文の全文が記載されています。
参考資料:小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号 大阪歴史学会 1995.9,
参考資料:『大正大阪風土記』訂正 大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927,
参考資料:浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認),
参考資料:『水都大坂を襲った津波: 石碑は次の南海地震津波を警告している。』 長尾 武著・発行 改訂版 2007.2,
寄与者:大阪市史編纂所
備考:大阪市立図書館webギャラリー「大阪の災害 ~江戸・明治期にかけて~」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme569.html (2011.3.23確認)、
小展示「幕末の大坂を襲った大地震と大津波」(平成16年12月 大阪府立中之島図書館作成)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/63_jisin.html (2011.3.23確認)もご参照ください。
(2012/04/17 14:41)
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大阪上本町の近鉄百貨店辺りにあった「梅屋敷」についての資料はないか?(大阪市立中央図書館)
「東都亀戸の梅屋敷を模して、文化年間に造ったもの~生玉馬場の東(現在の上本町六・七丁目辺)にあり、園中に梅を植え、樹下に席を設け~秋には菊観で賑わった~。~日露開戦の一二年後には、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となり、大正期には忘れさられてしまった。」
(「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008より)
『浪華の賑ひ』 (鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975|安政2年版の複製)26丁に”梅屋敷”についての記述がある。
その他は以下のとおり。
・『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 (船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978)p277~278
・『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 清文堂,1985|大正11年刊の復刻)p764
・『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
・『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
・徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
・『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
・『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
・『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
・『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
・『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])には「梅屋敷」の絵が収録されており、
大阪市立図書館 画像データベースで画像を提供しているほか、大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」でも同画像を紹介。
”梅屋敷”の位置と広さについては、次の資料による。
『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1996.3) 歴史地図 図5 天保期の大坂三郷
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 (吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911)
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 ([吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911)
国立国会図書館ホームページの「写真の中の明治・大正 関西編」 梅屋敷には、
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、関連する近代デジタルライブラリーへのリンクあり。
大阪府立図書館に『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)が所蔵されており、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像が公開されている。
また、「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号(2008(平成20)年3月31日)本文もホームページ紀要のページで公開されている。
また、大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」では、 『浪花百景』(芳瀧画)・『浪華百景之内』(貞信(初代)画)の画像を見ることができる。
回答プロセス:『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂出版,1986.7)には記載なし。
大阪市史編纂所に助言を得る。
2010.3追加調査
1.大阪府立中之島図書館 ホームページで調査
大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.3.24確認)を調査
事項から検索 “梅屋敷”
『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
『上方』 31 p62-63 193307 新梅屋敷が中心
※『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969) 所収
『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
文献名から検索 “梅屋敷”
徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)は、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像公開を確認。
「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認)では、
名所名 梅屋敷で二つの画像を見ることができる。
2.国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認)を調査
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、代デジタルライブラリーの関連する下記タイトルへのリンクあり。
『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
貴重書画像データベースで紹介されている『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])も含め、当館所蔵あり。
3.CiNii - NII論文情報ナビゲータhttp://ci.nii.ac.jp/ (2010.3.25確認)を調査
キーワード“梅屋敷”で検索。
小笠原 弘之 , 山田 瑞穂 , 佐藤 敏江 [他] 「翻刻『梅屋敷の記--一名 このはな』 翻刻『松島紀行』」 『大阪府立図書館紀要』 (37),2008/3 が見つかる。
大阪府立図書館紀要ページで本文公開を確認。
2010.10追加
『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
事前調査事項:『葎居後集 1~3巻』(黒沢翁満著 河内屋和助 安政5.6(1858))
参考資料:『浪華の賑ひ』 鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975,
参考資料:『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978 浪速叢書刊行会 1927年刊の復刻,
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 井上 正雄/著 清文堂,1985 ISBN 4-7924-0271-9大正11年刊の復刻,
参考資料:『新修大阪市史 第10巻』 新修大阪市史編纂委員会/編集
大阪市,1996.3,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 [吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911,
参考資料:大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme829.html (2010.3.25確認),
参考資料:「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」http://rarebooks.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008(平成20)年3月31日 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/kiyo.html (2010.3.25確認),
参考資料:『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969 ,
参考資料:徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号1980.9(p82-87) <当館書誌ID:0000253458>,
参考資料:『京阪名所案内』 白土 幸力/編輯 博盛堂,1904,
参考資料:『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟 』 大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻,
参考資料:『大阪新繁昌記』 島本 篤平/著 島本篤平,1894.10,
参考資料:『大阪案内』 日本電報通信社大阪支局,1909,
参考資料:大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認),
参考資料:『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』国書刊行会/編 国書刊行会,1985.11,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.3.24確認)
備考:大阪市立図書館Webギャラリー「大阪名所めぐり」http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/disp_themes.cgi (2011.2.4確認)もご参照ください。
2010年3月18日から4月1日まで大阪市立図書館サイトトップ( http://www.oml.city.osaka.jp/ )で、
「梅屋敷」 (『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])をご紹介しました。
「古文書や大阪関係の地図を検索する」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_all.cgi (2010.12.17確認)で、書名 図名“写真浪花百景”で検索し、17ページをご参照ください。
山口吉郎兵衛(4代)やまぐち-きちろべえ(1883-1951) 明治-昭和時代の銀行家。
明治31年大阪第百四十八国立銀行を山口銀行(三和銀行の前身)に改組し,社長となる。陶磁器の収集家,茶道家としても知られる。大阪出身。号は滴翠。(『日本人名大辞典』(平凡社)山口吉郎兵衛(4代)の項目より抜粋)
(2011/04/23 16:54)
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石川静水という人物について知りたい。大阪で化粧業界紙の発行をしていた人らしい。(大阪市立中央図書館)
石川静水は、石川清三郎のこと。大阪化粧品商報主筆。
雑誌『あまカラ 33号』(甘辛社,1954.5)「哥沢初稽古」(p.38)に、石川静水について記述がある。
それによると、金物問屋に生まれ、隣家の南木芳太郎(なんきよしたろう:明治15(1882)年-昭和20(1945)年 昭和期の郷土史家。上方郷土研究会を創立し、大阪の近世・近代史を研究)と御津幼稚園からの竹馬の友であった。
また、石川静水の執筆したものとして下記を紹介。
1)『上方』101 「百人随筆集その2 芳チャンと上方」193905 (p.24-25)
南木芳太郎についての記事で、島之内の新屋敷を遊び場としていた事等が綴られている。
2)『上方』50 「新屋敷」193502 (p.35-38)
3)『上方』68 「宗右衛門町に涼みがあった時代」193608 (p.10-11、46-47)
4)『上方』81 「見世物と流行歌」193709 (p.57)
城崎文芸館(兵庫県) http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)には、静水撰の画帖「城崎八景」所蔵があり、あわせて紹介する。
回答プロセス:1.人物関連の参考図書を調査
下記に記載なし。
『大阪人物辞典』(清文堂出版,2000.11)
『『大阪春秋』総目次・索引集 創刊号~第100号』(大阪春秋社,2002.9) 人名の項目なし
『上方 郷土研究 別巻』(新和出版社,1971) 町人学者・俳句・新聞・出版の各項目 該当なし
『新修大阪市史 第10巻』(大阪市,1996.3) 索引 該当なし
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』( 日本図書センター,1989.10)
『大阪人物誌 正編 』(臨川書店,1974)、『大阪人物誌 続編』(臨川書店,1974)
『日本書画骨董大辞典 増訂版』(成文館書店,1935.8)
『日本紳士録 24版』(交詢社,1919.12)
2.大阪の化粧品業界の資料を調査
当館所蔵を、キーワード“大阪×出版×化粧品”で検索。
『日本の書店百年』 (青英舎,1991.7)の内容確認するが、記述なし。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベース http://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.5.10確認)
“石川静水”で検索。事項から検索 0件、文献名から検索すると、下記の4件の記事があり。
1)上方 101 百人随筆集その2 芳チャンと上方/石川静水 p24-25 193905
2)上方 50 新屋敷/石川静水 p35-38 193502
3)上方 68 宗右衛門町に涼みがあった時代/石川静水 p10-11、46-47 193608
4)上方 81 見世物と流行歌/石川静水 p57 193709
4.インターネットで調査
国立国会図書館 蔵書検索・申込システム http://opac.ndl.go.jp/ (2010.5.10確認)、
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2010.5.10確認)では情報なし。
Googleで、“石川静水”検索、城崎文芸館が同氏撰の画帖を所蔵していることが判明。
5.当館提供商用データベースで調査
下記全て“石川静水”が該当なし
e-レファレンス/ツール(日外 人物・出版情報)
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
The SankeiArchives(産経新聞記事)
日経テレコン21(日経四紙記事)
毎日Newsパック(毎日新聞記事)
ヨミダス文書館(読売新聞記事)
6.大阪市史編纂所に照会
化粧品商報社の編集をしていた人物である。
肥田晧三氏の講演会(「中井浩水著作目録(二) 大阪芸能懇話会 平成16年6月27日)レジュメの中に、“静水”についての記載(雑誌『あまカラ33号』より抄出)があるとの情報を得た。
参考資料:『あまカラ 31~40号』(甘辛社,1954.3-12),
参考資料:『上方 郷土研究 10(上)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』101所収,
参考資料:『上方 郷土研究 5』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』50 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 6』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』68 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 7』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』81 所収,
照会先:城崎文芸館 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.5.10確認)
備考:大阪市立図書館多機能OMLISでは、2011年4月より商用データベース「毎日Newsパック」に代えて「毎索」(マイサク)(毎日新聞記事)を提供。
(2011/04/08 20:23)
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明治36年(1903)、第五回内国勧業博覧会開催時に、親子丼が販売提供されていたか知りたい。(大阪市立中央図書館)
『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
あわせて下記の資料をご紹介した。
・『博覧会』(「実業世界太平洋」臨時増刊第1巻第五号)(博文館,1903)
山下雨花「余興と飲食物」の項目に下記の記述あり。(p.189 下段)
「鳥菊の鳥、~その鋤焼に親子丼の風味は、~」
・『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』(山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903)
「場内飲食店」の項目に、「鳥菊」あり。(p.29-30)建物の記述等あるが、親子丼の記述なし。
・『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』(山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.57)
・『第五回内国勧業博覧会場全図』(博文館,1903)
鶏肉料理 内本(図の中央あたりの上部)
・『第五回内国勧業博覧会案内記』(井上 熊次郎/編纂 考文社,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.83)
・『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
回答プロセス:1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)」(事典・辞書等) を調査
キーワード“親子丼”で検索、4件の項目が見つかるが詳しい由来はなし。
キーワード“親子丼”で全文検索、22件の項目のうち、由来については下記の項目にあり。
『日本大百科全書』(小学館)【丼物】
「親子丼は、東京・中央区の玉秀という鳥料理屋で明治初期に創作したもの。」
2.参考図書を調査
・『明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 』(河出書房新社,2000.3)
明治36年3月1日、大阪で初めて“親子丼”が売り出されるとあり。(p.300)
・『衣食住語源辞典』(東京堂出版,1996.9)
1903年7月26日『大阪毎週新聞』に“親子丼”の文字が見える、とあり。(p.59)
※『大阪毎週新聞』は所蔵せず。
事物起源・料理の歴史に関する図書も調査するが、関連の記述は見つからない。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2011.3.7確認)を調査
キーワード“親子丼”で検索、下記の図書が見つかった。
・『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)
「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
4.googleブックス http://books.google.com/ (2011.3.7確認)で調査
キーワード“親子丼”ד内国勧業博覧会”で検索、下記の図書が見つかった。
・『語源海』(東京書籍,2005.3)
料亭鳥菊の主人、内本松次郎の名あり。(p.171)
・『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)
鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97) ※利用者調査済
5.新聞データベースを調査
・商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
「朝日新聞縮刷版」メニューで調査
大阪朝日新聞の1903年7月26日から8月2日まで内国勧業博覧会の記事を確認してみるが、“親子丼”の記事はなし。
“鳥菊”で検索すると、明治18年(1885)6月13日大阪朝刊4頁に広告「鳥菊 近火御見舞御礼」などが見つかる。
親子丼についてはなし。
“親子”ד丼”で検索すると、明治17年(1884)の神戸元町の「江戸幸」の広告に
「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名称あり。
・商用データベース「ヨミダス歴史館」(読売新聞記事)
関連の記述見つからず。
6.大阪市史編纂所にお尋ね
“第五回内国勧業博覧会”の出店記録は資料としてあるだろうが、“親子丼”を販売していた等の記録はないと思われ、見聞記や新聞記事等に記述が見つかる可能性を示唆された。
7.第五回内国勧業博覧会関係資料を調査
回答記載の資料に関連する記述を確認。
8.国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2011.3.7確認)
第五回内国勧業博覧会関係で、当館の所蔵していないものを確認。
『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
事前調査事項:『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)に鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97)
参考資料:『博覧会』博文館,1903,
参考資料:『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場全図』博文館,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会案内記』井上 熊次郎/編纂 考文社,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認),
寄与者:大阪市史編纂所http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2011.3.7確認)
(2011/03/19 10:29)
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生島永太郎(いくしま えいたろう)について知りたい。明治の終わりから戦前ぐらいまでの大阪商人(久太郎町)。 甲南小学校の設立者の一人で、明治45年に大阪保誉院を作った人。父は生島嘉蔵(かぞう)。(大阪市立中央図書館)
生島永太郎は、明治7年11月生。生島家では、代々嘉蔵を襲名している模様。下記の資料をご紹介した。
1.『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)
「起源及沿革」ほかに記載あり。生島永太郎(嘉蔵)の表記が多数。
2.『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
3.『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3) 『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり。
4.『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
回答プロセス:1.当館所蔵を検索
“生島永太郎”では該当なし。
2.商用データベースで調査
商用データベース「ジャパンナレッジ」 該当なし
商用データベース「e-レファレンス/ツール」 生島嘉蔵(いくしまかぞう)はあり。
「文政4(1821)年~明治32(1899)年7月2日 江戸時代末期・明治期の商人、貿易商。貿易業に従事、唐反物を取り扱う。【掲載事典】◎「幕末維新人名事典」
永太郎の祖父にあたるのか?
3.中之島図書館「大阪文献データベース」を調査
該当無し。
4.『新修大阪市史』索引になし。
5.大阪保誉院関連の資料を調査
『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)に記載あり。
『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
6.甲南学園関係資料を調査
『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p4)。
『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p18)
7.大阪関係の人物事典を調査
『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2
大阪市商工業者資産録(商業興信所編 1902(明治35)年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月生まれとあり。職業欄は空欄。
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 明治43年刊)の復刻)に、生島嘉蔵あり。住所と所得税・電話の掲載(p20)
『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
『大阪人物辞典』 (三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11)
生島嘉蔵 文政4(1821)年 (p62) 「幕末維新人名事典」掲載と同人物
『日本人物情報大系 32 企業家編 2』(皓星社,2000.3)
生島嘉蔵のみ。
下記には記載無し。
『明治大正昭和大阪人名録 中巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 大正14年刊)の復刻
『明治大正昭和大阪人名録 下巻』(日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 昭和11年刊の復刻)
『大阪新人大観』(升谷 天惠/著 大阪新人大観編纂局,1925)
『大阪新人物誌』(夕刊大阪新聞社,1934.6)
『大阪の公人 : 付・連合区制の小史』 (山本 桃洲/著 大阪の公人刊行事務所,1916.4)
8.近代デジタルライブラリーで調査
『明治富豪譚』(大阪毎日新聞社 明治25.9)「生島嘉蔵乗車賃を二銭に限る」
『当世名士譚』(米倉領次郎,明25.10)「生島嘉蔵の質朴」
年代からして、永太郎の父のことか。
9.大阪市史編纂所におたずね
有用な情報なしとのこと。
参考資料:『社団法人大阪保誉院記念帳』大阪保誉院清算事務所,1935.7,
参考資料:『大阪府社会事業史』大阪社会福祉協議会,1958,
参考資料:『甲南学園50年史』 甲南学園50年史出版委員会/編 甲南学園,1971.3,
参考資料:『甲南学園の70年』 甲南学園史資料室委員会/編集 甲南学園,1992,
参考資料:『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2 ISBN 4-8205-5416-6,
参考資料:『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 日本図書センター,1989.10 ISBN 4-8205-2058-X,
参考資料:『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5 「大阪現代人名辞書 1」文明社/編纂 復刻 初版:文明社 大正2年刊 ISBN 4-8205-9966-6 ,
参考資料:『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11 ISBN 4-7924-0499-1,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.1.23確認)
備考:商用データベース「e-レファレンス/ツール」は、2010年6月から「e-レファレンス・ライブラリー」(日外 人物・出版情報) に変更。
(2010/12/13 19:38)
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