大阪市史編纂所では、『新修大阪市史史料編(全22巻)』の第7回配本として第3巻「中世Ⅱ」【A5判、840ページ、本体価格5,500円】を刊行し、平成22年1月16日(土)から大阪市立中央図書館ほか市内23館の地域図書館において閲覧に供します。 また、大阪市内の
一部の書店でも販売を取り扱います。
購入希望の方は、販売書店または大阪市史料調査会(TEL:06-6539-3333)までお問い合わせください。
本書は『新修大阪市史』(本文編)を補完するという観点から、本文編
第2巻のうち、保元の乱(1156)から南北朝合一(1392)までの中世大阪に関する史料を掲載しています。
具体的な内容
- 第1章は保元の乱(1156年)から平家の滅亡(1185)までを扱います。この内乱では、大阪湾岸の水上交通をおさえた武士団渡辺党が源氏方に加わり活躍します。また四天王寺別当職をめぐる延暦寺と園城寺の対立、阿倍野をめぐる四天王寺と住吉社の抗争、渡辺党惣官職をめぐる源姓と遠藤性の主導権争いは、この時期から始まり、鎌倉期まで続きます。
- 第2章は承久の乱(1221)までを扱います。法皇や上皇が四天王寺参詣をくり返します。四天王寺も念仏信仰・舎利信仰・聖徳太子信仰など、さまざまな手立てを使って勢力の拡大につとめました。また渡辺党の一部は後鳥羽上皇に仕え、承久の乱では京武者として活躍します。
- 第3章は弘安の役(モンゴルの襲来、1281年)までを扱います。渡辺党はいくつかに分かれ、四天王寺の兵士や渡辺津の海賊となる者、現在の大阪天満宮から太融寺辺りに拠点を置く一族が現れます。藤原家隆が天王寺を往生の地と定めるなど、貴族の四天王寺信仰は健在でした。
- 第4章はモンゴル襲来の翌年(1282年)から鎌倉幕府の滅亡(1333年)を経て、後醍醐天皇の政権が崩壊する建武2年(1335年)までの約50年間を扱います。亀山上皇が四天王寺に参詣したとき、境内の安井殿(現在の安居神社にあたる)を行宮としました。また鎌倉末期には、津守氏や渡辺党、大阪市域の悪党などが後醍醐天皇との関係を深めていきます。
- 第5章は北朝と南朝の分裂(1336年)から、両朝の合一(1392年)までを扱います。南北朝の内乱期、大阪市域は渡辺や天王寺周辺から住吉にかけての地域が主戦場となりました。渡辺党惣官家や住吉社神主津守氏は南朝方に付きました。後醍醐天皇の子、後村上天皇が住吉神主津守国夏の館を行宮として以来(1360年)、天皇が没するまで(1368年)、住吉社は南朝の拠点となりました。また北畠顕家が南朝軍を率いて渡辺・天王寺・阿倍野で行った合戦の記録は全国に残っています。
- 第6章は渡辺党・住吉神社神主津守氏など、中世の大阪で活躍した人々の系図を載せています。とりわけ「堺禅通寺蔵渡辺系図」は、初めて全文を紹介します。数種類現存する渡辺氏系図の中でも、多くの人物や注記が載っています。この他、平野区長宝寺の歴代住持を記した「長宝寺系図」や、四天王寺に伝わる舞曲がどのように伝授されたかを記した「催馬楽師伝相承」を収録しています。