17世紀の終わりごろから18世紀にかけて、財力をたくわえた町人のあいだで生活を楽しもうという意識が強くなり、学問や文化がさかんになりました。
町人の生活や気持ちをうつしだした井原西鶴(いはらさいかく)の小説、浮世草子(うきよぞうし)や、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃(じょうるり)がもてはやされました。歌舞伎・浄瑠璃、あるいは落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪に中心が移ってきます。
また、「雨月物語」を書き万葉集を研究した上田秋成(うえだあきなり)、「万葉代匠記」(まんようだいしょうき)を書いた契冲、天文学者の間重富(はざましげとみ)、北堀江で酒造業をいとなんでいた博学者の
木村蒹葭堂など、たくさんの町人学者が生まれ、町人学校もあちこちに生まれました。町人学校としては、中井甃庵(なかいしゅうあん)の「懐徳堂」、平野郷(平野区)の惣年寄土橋友直らによって開かれた「含翠堂」(がんすいどう)など。そして江戸時代の終わりごろには、緒方洪庵が「適塾」を開き、オランダの医学や学問を教えました。適塾は写真のように今も史蹟として
北浜3丁目に保存されており、適塾で学んだ人のなかには福沢諭吉の名前もあります。
→適塾については
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