共通メニューなどをスキップして本文へモバイル版トップページへ
 
大阪市立図書館
 
 
大阪市立図書館
画面下にアクセシビリティツールを表示します   

 
 
 
トップ > 市史編纂所> 大阪の歴史> 中世・近世の大坂 
大阪市史編纂所
 

中世・近世の大坂

原始・古代の大阪原始・古代の大阪

「おおさか」の誕生「おおさか」の誕生 秀吉と大坂城秀吉と大坂城

水の都水の都天下の台所―蔵屋敷と三大市場―天下の台所―蔵屋敷と三大市場― 町人文化町人文化
新田の開発新田の開発 大塩平八郎の乱大塩平八郎の乱


近代・現代の大阪近代・現代の大阪
 

「おおさか」の誕生

 平安時代になって中国にたよらない日本風の文化が生まれると、難波津もあまり重んじられなくなりました。しかし大阪は水上・陸上両方の交通が集まっていたところなので、源平の内乱や南北朝の内乱、さらに戦国時代、しばしば戦いの舞台となりました。大坂寺内町想像図

 1496年(明応5)、本願寺8世蓮如(れんにょ)が「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院をたてました。のちの、いわゆる「石山本願寺」です。その境内には商人などが住む「寺内町」(じないまち)がつくられました。「大坂(大阪)」という町の誕生です。

 この町は、今の大阪城あたりにあったと考えられています。周囲には堀・塀がめぐらされ、城と同じようなつくりになっていました。しかしその後本願寺が織田信長と争い、1580年(天正8)8月に大阪を明けわたして去ると、寺内町も焼けてしまいました。

大坂と大阪】 「おおさか」という地名は、もともとは「大坂」と書いていましたが、明治維新後は「大阪」と書かれることが多くなっていきました。ややこしいので、ここでは「大阪」に統一しています。
 

秀吉と大阪城

 織田信長のあとをついで国内統一をすすめていた秀吉は、 1583年(天正11)に大阪城の築城にとりかかりました。もとの寺内町は全体が城に改造され、その外側に新しい城下町が建設されました。

 大阪城は1615年(元和元)の大阪夏の陣で焼け落ちましたが、そのあと徳川幕府によって、城も町も再建されました。秀吉の築いた大阪城は、図のように現在の城の地下でねむっています。

大阪城本丸断面図
 

水の都

 現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別とすれば、戦国時代までは低湿地だったところがほとんどです。秀吉はそこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけをよくするとともに、掘り上げた土で周囲を土盛りさせました。こうして低湿地が、人の住める町にかえられました。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、現在の大阪の町の原型ができあがっていきました。江戸時代の堀と川

 江戸時代になると、西のほうの湿地にもたくさんの堀川が掘られ、市街地がさらに広げられていきました。右の図を見てください。今は埋めたてられて道路になっているものが多いですが、「水の都」といわれた大阪の堀川のようすがよくわかります。

 商業がさかんになると、これらの堀川をたくさんの船が行き来し、全国から集まるいろいろなものを運びました。そのころの船は今のトラックの役目をし、堀川は今の道路の役目をしていたのです。
 

天下の台所―蔵屋敷と三大市場―

蔵屋敷(摂津名所図絵より) 江戸時代の大阪の町は、北組、南組、天満組の三郷にわけられ、「大阪三郷」といわれていました。この三郷を支配していたのは大阪町奉行でした。しかしそのもとで町政の実務を行っていたのは、三郷の町人のなかから選ばれた「惣年寄」(そうどしより)と、その下の「町年寄」たちでした。

 そのころの大阪は、「天下の台所」であったといわれます。大名たちは主な税として農民から米を取り立てていましたが、多くの大名が中之島などに蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみお金にかえていました。

 
 江戸時代の大阪には三つの大きな市場がありました。堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場です。なかでも重要なのは堂島米市場で、そこで取り引きされた米の価格が、全国の米価の基準になったといわれています。

天下の台所】江戸時代からあった言葉のように思われることが多いですが、最近の研究では、『大阪市史』などを書いた幸田成友がつけたキャッチコピーであることがわかってきています。
 

町人文化

 17世紀の終わりごろから18世紀にかけて、財力をたくわえた町人のあいだで生活を楽しもうという意識が強くなり、学問や文化がさかんになりました。今も残る適塾の建物
 町人の生活や気持ちをうつしだした井原西鶴(いはらさいかく)の小説、浮世草子(うきよぞうし)や、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃(じょうるり)がもてはやされました。歌舞伎・浄瑠璃、あるいは落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪に中心が移ってきます。

 また、「雨月物語」を書き万葉集を研究した上田秋成(うえだあきなり)、「万葉代匠記」(まんようだいしょうき)を書いた契冲、天文学者の間重富(はざましげとみ)、北堀江で酒造業をいとなんでいた博学者の木村蒹葭堂など、たくさんの町人学者が生まれ、町人学校もあちこちに生まれました。町人学校としては、中井甃庵(なかいしゅうあん)の「懐徳堂」、平野郷(平野区)の惣年寄土橋友直らによって開かれた「含翠堂」(がんすいどう)など。そして江戸時代の終わりごろには、緒方洪庵が「適塾」を開き、オランダの医学や学問を教えました。適塾は写真のように今も史蹟として北浜3丁目に保存されており、適塾で学んだ人のなかには福沢諭吉の名前もあります。

→適塾についてはこちらもごらんください(大阪大学)
 

新田の開発

大阪湾岸の新田
 大阪は淀川の河口に発達したまちで、江戸時代には大阪湾の浅瀬をうめたてて田や畑にする、新田開発がさかんに行われました。最初は三軒屋や九条島、四貫島が新田として開発され、もっともさかんに行われた元禄から宝永の初め(1700年ごろ)にかけては、泉尾、津守、市岡、春日出、出来島など、さらにそののちには、千島、恩加島などの新田がつぎつぎに開かれました。図を見てください。

湾岸の土地はすべて新田として開発されたところで、新田の名前が町の名前として現在までひきつがれているところがたくさんあります。
 

大塩平八郎の乱

 大塩平八郎は38歳で東町奉行所の与力をやめて、天満に「洗心洞」という塾をひらき陽明学という学問を教えていましたが、天保の大凶作によって人びとが困りはてているようすをみて、なんとしてでもこの人たちを救わなければならないと思い、持っていた大切な書物を全部売って、代金をまずしい人びとにわけ与えました。

 しかしこれぐらいのことではどうにもならず、米のねだんが高くなり人びとが苦しまなければならないのは、町奉行が悪い商人と結びついて私欲をこやしているからだ、と考えて、ついに1837(天保8)年2月19日、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

 この乱は半日ほどでしずめられましたが、その影響をうけて、のちに同じような一揆が各地でつぎつぎとおこるようになりました。そしてしだいに幕府の政治に対する抵抗が強まっていきました。