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大阪に関するよくある質問
図書館に寄せられるよくお尋ねのある質問と回答をまとめてみました。
大阪に関するよくある質問
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質問
日露戦争当時の天下茶屋に捕虜収容所があったと聞いたが、どこにあった、どんな施設だったのか?
回答
天下茶屋の捕虜収容所(当時は「俘虜収容所」)については、約2ヶ月間の存在だったことや、その後の耕地整理等で跡地の姿がまったく変わったこともあり、具体的な資料がほとんど残っていませんが、わずかに残されている資料を基に、大まかな位置を推測することは可能です。まず新聞記事*1の記述から得られる施設の変遷を次に示します。
・1905年1月
前年10月に設置されたばかりの陸軍予備病院天下茶屋分院を日露戦争により捕虜となったロシア軍兵士の収容所としてあてることとし、「大阪天下茶屋俘虜収容所」との看板を掲げ(「朝日新聞」1905年1月11日付)順次収容を開始。
・ 同年2月
高石村(現・高石市)にあった2万人規模の収容所が「大阪俘虜収容所」と称したのを受けて「大阪俘虜収容所天下茶屋分所」と改称(「朝日新聞」1905年2月10日付)するが、その直後に「大阪俘虜収容所」が再び「浜寺収容所」と改称したのを受けて「浜寺収容所天下茶屋分所」と改称(「朝日新聞」1905年2月23日付)。 同年3月初めまでに合計6,047人を収容していたが、その全員を浜寺収容所へ移送することとなり(「朝日新聞」1905年3月5日付)、3月18日午後に移送を終了。施設は、当初の予定通りに陸軍予備病院分院として使用することとなる。(「朝日新聞」1905年3月19日付)
その後、同年7月に新たな捕虜が来阪していますが、天下茶屋のこの施設に収容されることはなく、「天下茶屋の捕虜収容所」は、わずか2ヶ月ほどの存在でした。施設の位置や建物の概要についても、写真や図面などの資料は残っておらず、わずかに新聞記事が次のように伝えているだけです。
「今回設けられたる天下茶屋俘虜収容所(元予備分病院)は天下茶屋停車場の稍北斜向即ち軌道の西側畑中にして敷地約6万坪あり其周囲は杉板塀を繞らし庁舎は柿又はラバライト葺平屋建60棟にて此外事務室、繃帯交換室、調剤室、手術室、庖厨、衛兵、憲兵詰所等の附属庁舎あり、井戸も備はれど飲料には浄水を用ふることとし水道事務所は昨日より鉄管敷設に着手し電話、電灯を装置せり」(「朝日新聞」1905年1月12日付)
大体の位置として「天下茶屋停車場(現在の南海本線天下茶屋駅)のやや北西方向で現在の南海本線の線路の西側一帯」という情報が得られますが、敷地の形はわかりませんのでどの辺りまでが収容所の敷地だったのかはわかりません。ただ、敷地の西側と北側の限界については、次のように推測することは可能でしょう。
<西側の限界> 現在の南海本線の線路の西側がほとんどが畑地だった当時の状況の中で勝間街道(現在の橘小学校の東側の南北の道路)は江戸時代以来の重要道路として現在まで伝わっていますから、これを破壊して勝間街道の西側まで収容所の敷地が伸びていたわけではないでしょう。
<北側の限界> 現在の花園交差点東北角にある弘治小学校の大正(1912年〜1926年)の頃を描いた絵地図*2の中に「天井の高いバラック建」が描かれ、その説明として「元ロシア人俘虜収容所の建物を天下茶屋より移築したもの」とあることから、現在の花園交差点の辺りは収容所の敷地には含まれていなかったことになります。試みに、東西を南海本線と勝間街道、南北を天下茶屋駅を通る東西の線と花園交差点を通る東西の線に区切られた地域の面積を地図から求めると概ね8万坪となります。新聞記事では収容所の面積は約6万坪とあり、面積の上でも矛盾しませんから収容所がこの範囲内にあったと想定でき、この範囲の約4分の3を占める、極端に長細くはない敷地だったと推測されます。なおこの敷地は、陸軍予備病院分院としての活用の後、1909年1月に払下許可がおりて陸軍省から元の地主に返還され、今宮第一耕地整理組合事業(1910年2月〜1911年4月)によって、道路・水路を整然と整理した区画として生まれ変わり、次の時代の宅地化へと備えることとなります*3。
参考文献
*1 新聞記事による記述は、次の資料掲載のものを参考にまとめています。
『西成区史』 川端直正編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431 p42〜44
『新修大阪市史第6巻 新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1994 書誌ID 0000427809 p803〜805
『高石市史』第1巻 高石市史編纂会編集 高石市 1989 書誌ID 0000768995 p912〜914
*2 『弘治:大阪市立弘治小学校創立80周年記念誌』 大阪市立弘治小学校80周年記念誌委員会編 大阪市立弘治小学校 1979 書誌ID 0090004760 p12
*3 『今宮町志』今宮町編纂大阪府西成郡今宮町残務所 1926 書誌ID 0000244964 p264〜266
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